2001年のアメリカ同時多発テロ(9.11)が起きるまで、アメリカ史上最悪のテロ事件といわれたオクラホマ連邦ビル爆破事件。日本ではあまり知られていないかもしれません。現在、事件現場にはメモリアルと事件に係るミュージアムが作られ、事件から20年以上経過しても多くの参拝者が訪れています。
テロ事件の悲惨さが痛い程伝わってくる展示の数々ですが、メモリアルとミュージアムの内容についてご紹介します。
オクラホマ連邦ビル爆破事件とは?
1995年4月19日にオクラホマシティで発生した爆破テロ事件です。168人死亡、800人負傷という凄惨な結果となりました。爆破されたビルの名前は『オクラホマ連邦地方庁舎』、このビルにはには保育所が入っていたことから、幼い子供たちが19人も犠牲になりました。
犯人はティモシー・マクベイという当時26歳のアメリカ人男性で、彼は大量の爆弾を積んだトラックを連邦ビル前に停車し、トラックごと爆弾を爆発させるという手口で連邦ビルを爆破しました。マクベイは元陸軍兵士であり、元軍人が母国アメリカを攻撃したという事実に全米が震撼したそうです。
↓爆破された連邦ビル。爆発により建物の約8割が崩壊しました。
メモリアル&ミュージアムの建設へ
事件後、テロ現場には花束などのお供えをする人が後を絶たず、行政がメモリアル(慰霊碑)と事件に係るミュージアム(博物館)を建設することを決めたそうです。メモリアルは2000年4月に完成し、凄惨な事件について後世へ伝える役目を担っています。
↓爆破された連邦ビルの跡地に建設されたメモリアル。
↓当時、爆破された連邦ビルの通りの向かい側に建っていたビルが現在ミュージアムに改装されています。
アクセスと駐車場
オクラホマシティのダウンタウン中心部に位置しています。
〔地図〕
メモリアル周辺にはパブリックパーキングがいくつかあり、どれもだいたい1日5ドルでした。ちなみに、メモリアルの道路向かいにある郵便局には無料のお客様用駐車場がありますが、郵便局用途以外の駐車はレッカー移動する可能性があると看板に書いてあるので、おすすめはしません。正直レッカー車が来るとは考えにくいですが…。
メモリアルの様子(建物外)
メモリアルはちょうど爆破された連邦ビルの跡地に建てられています。毎日24時間いつでも自由に入場できるようになっています。
事件から20年以上経過した後も、メモリアルを訪れる人の数は後を絶たず、現在も事件現場の壁のフェンスには鎮魂の願いを込めた品々が多く飾られています。幼い子供たちの犠牲が多かったため、玩具が多くみられました。
↓メモリアル前の壁のフェンス。
Gate of Time:9:01と9:03の狭間
当時トラックが爆発した道路をリフレクティングプールに改修し、9:01と9:03の時の門で挟んでいます。これは爆発が9:02に発生したことを表しています。その瞬間すべてが一変したのです。
Field of Empty Chairs:決して埋まることの無い椅子
リフレクティングプールの隣には、爆破事件で亡くなった168人分の椅子が置かれています。これらの椅子は被害者が使っていたダイニングチェアを象徴しており、事件被害者は家族の待つ食卓に二度と帰ることができないというメッセージが込められています。
Survivor Tree:生き残った木
連邦ビルの隣にあり、ビル爆発時も焼け落ちることなく、生き抜いたSurvivor Tree。当時の写真と比べると、かなり成長しているのがわかりました。凄惨なテロ事件にも屈せず、今でも力強く生きているサバイバーツリーは、ミュージアムのロゴにも使用されており、メモリアル全体のシンボルとなっているのでした。
壁に書かれたレスキュー隊のメッセージ
ミュージアムの壁には、当時被害者の救助に関わったレスキュー隊が残したメッセージが今も残されていました。
ミュージアム前の平和のメッセージボード
ミュージアム入口の地面には黒板が設置されており、人々が平和のメッセージを自由に描きこめるようになっています。訪れる人々により毎日書き換えられる平和への祈りや希望。
また、黒板の前には事故を受けてオクラホマ州に送られた子供たちによる平和を祈るイラストが描かれたタイルが飾られています。
ミュージアムの展示内容(建物内)
開館時間とエントランス
ミュージアムは毎日9時~18時までオープンしています(サンクスギビングデやクリスマスは除く)。入場料は大人1人15ドル。
↓エントランスにあった言葉。このミュージアムが建てられた意義について説明されています。
素人が訳してみる…”わたしたちはここへ、亡くなった人々、生き残った人々、そして永遠に変わってしまったものを思い出すために訪れる。ここを離れても人々が暴力の悲劇を知りますように、このメモリアルが鎮魂、強さ、平和、希望そして平安に寄与することを願う。”
事件当日…いつもと変わらない朝
事件が起こった1995年4月19日の朝はいつもと変わらない平穏な朝でした。このような紹介から始まる展示は、ニューヨークの9.11メモリアルの展示を彷彿とさせました。
↓当時連邦ビルに入っていた施設。連邦ビルだけあって、公的な事務を扱う施設が中心です。その中に『America’s Kids Day Care』の名前も。特にこの保育所は爆発現場に近く、多くの子供たちが犠牲となってしまいました。
悲痛な事件現場の様子
展示室を進んでいくと個室に誘導され、そこで爆破された連邦ビルの隣に隣接する水道局ビルで偶然録音されていた会議のテープ音源を聞くことができます。普段通り会議が進む中、9時2分になると突然、響き渡る巨大な地響きと人々の悲鳴。見学客も当時の緊迫した雰囲気を追体験できるというような展示になっていました。爆発の威力はマグニチュード3にも達したそうです。
↓爆発によりほとんど破壊された連邦ビルの看板と、テープが録音された水道局の看板。
見学客がテープを聞き終わると、個室の扉が開き、当時の緊迫したニュース映像が流れ、爆破により破壊されたオフィスの様子などが展示されてあるフロアへ誘導されます。
この一連の展示の導線は、事件の悲惨さを本当に生生しく伝えてくれ、9.11メモリアル同様展示の作りこまれ方に感服したところでした。
撮影は控えましたが、靴やカバン、眼鏡などの遺品や生還者の体験談など重々しい展示の数々が続きます。
救助活動の様子
その後の救助活動についても詳細に展示がされています。当時は警察やレスキュー隊のみならず一般の人々も積極的に救出活動に参加したそうです。崩壊の危険が伴う中での救助活動は困難を極めました。
↓『We will never forget』と書かれたパトカーの窓。
特に全米に衝撃を与えたといわれる、レスキュー隊が瓦礫の中から救助した瀕死の幼児を抱きかかえる一枚の写真。この1歳の女の子は手当の甲斐なく搬送された病院で亡くなってしまったそうです。
爆発の手口とは
事件後、徐々に明らかになっていく爆発の手口。原因究明には専門家チームが立ちあげられました。写真のように、連邦ビル前の道路には大きな穴が開いていました。
犯人は大量の爆弾を積んだトラックを連邦ビル前に停車。その後トラックを残して逃走した後、9時2分に起爆装置のスイッチを押しトラックごと爆弾を爆発させたのです。爆発により玄関前の支柱が破壊されると、上階が崩れることを熟知した手口であり、結果ビル北側全フロアに甚大な被害を与えました。
↓事件翌日の新聞。当然ながら全紙の一面を飾りました。その後、当時の大統領であったビル・クリントン大統領も慰霊に訪れています。
犯人逮捕までの道
その後、国を挙げての犯人逮捕に動き出しますが、各地に残された証拠などから、ティモシー・マクベイという当時26歳のアメリカ国籍の白人男性が捜査線上にあがります。爆発に使用されたトラックのレンタル履歴(もちろん偽名を使っていた)から捜査が進んだそうです。その他、軍隊時代の同僚テリー・ニコルズも同じく逮捕されました。
↓証拠の探索から彼の逮捕、裁判に至るまでワンフロア使って展示があり、かなり詳細に説明がされています。
↓彼が事件当時宿泊していたという、オクラホマシティから約300km離れた町のモーテルの看板が展示されてありました。モーテル名は『DREAM LAND』、現在そのモーテルはなく、撤去される際にモーテルの看板がミュージアムに寄付されたとのこと。
更に驚く現物展示が、逮捕当時マクベイが乗っていたという車の現物。しかし驚くべきことにこの時のマクベイの逮捕の原因は、この車にナンバープレートがついていなかったことに加え、銃の不法所持。爆破事件の容疑者としてでは無かったんですね…。
その後、刑務所の中で改めて爆破事件の容疑者として逮捕されることに。ちなみに逮捕時の写真で彼が着ていたというTシャツまで実物の展示があります。
その後、展示は彼の裁判の様子や同じく共謀して逮捕された面々について。最終的にマクベイには2001年薬物による死刑が執行されました。
Gallery of honer
事件で亡くなった人々の写真と思い出の品が飾られた部屋も。保育所にいた幼い子供たち写真や供えられた玩具など、ここに入ると本当に胸が締め付けられました。
さいごに
ニューヨークの9.11メモリアル同様、ありのままにテロ事件の悲惨さが伝えられ、胸が締め付けられる展示の数々です。9.11以前にアメリカでここまで大きなテロ事件が起きていたとは知りませんでした。
↓ミュージアムからメモリアル、オクラホマシティのビル群を臨む風景。
日本ではあまり知られていない事件かもしれませんが、オクラホマシティ訪問の際は是非足を運んでみてはどうでしょうか。